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政治·軍事 裁の整備
宣祖31年(1598) 9月, 府使鄭奇男が赴任し, 11月には倭軍が撤收すると, 早速戰後の復 に着手します. 光海君8年(1616)には, 昌原にあった晴川鎭と新門鎭を進 と長有に移しましたが, この 2鎭は召募鎭で, 今の予備軍訓練所のような性格を持っています. 狀況によって兵力を補充する鎭でありました. 孝宗1年(1650), 府使朴敬祉が海倉と待 廳を江西區駕洛洞竹林に建築し, 顯宗7年(1666), 府使金城が)が中北村(現在の進永邑雪倉里), 花浦川に雪倉をつくり, 14年(1673)には府使李行益各面に社倉を作り, 1,200石を備蓄しました. 海倉と雪倉は租稅を納め保管する施設で, また海倉は水軍の武器を保管する役割もありました. 待 廳は倭寇の侵入のような 亂に對備する機關でありました.
旺盛な海運活動と
李重煥は『擇里志』で, 「わが國は三面が海に まれ, 海運の利益が多い」といい, 「船で商賣をする者の利益は, 必ず海と川が合流するところから得られる. 慶尙道で, 洛東江が海に合流するところが金海の七星浦で, 北の方面では尙州まで行けるし, 西の方面では晋州まで行けるから, 金海だけが, その出入口を管轄する. 金海は慶尙道の入口に位置するから, 南北の海と陸地の利益を兩方得られる. 特に公私を問わず, を販賣し大きな利益を得ている」と述べているが, 實際鳴旨島の 倉には全國の が山のように積まれていました. 英祖21年(1745)には鳴旨島の 民が作った を穀類と交換する蒜山倉が大東面 安に設置され, 2石に搗米1石の割合で 交換してあげましたが, 民を相對にする政府の高利貸しのような性格も强かったのであります. 最初は 1,500石の米で, 每年 11月に貸し出しては2倍にして返してもらい, 大きな利益を得ました. 結局, 20,000石まで增え, 余分のものは晋州の駕山南倉に移しました. 金海の活發な の生産と交易に, 政府の高利貸し業が寄生した結果であったといえるでしょう.
地域敎育の搖籃
金海最初の敎育機關は金海鄕校であります. 太宗8年(1408)に建てられ, 何回か移轉しましたが, 英祖46年(1770), 現在の大成洞に落ち着くようになりました. 鄕校は儒敎の聖賢を奉りながら, 地域の人材を養成し, また美風良俗を奬勵するがために作られた敎育機關でありました. それで, 鄕校は祭 と敎育の二つの空間に分けて, 構成されるのが普通であります. 金海鄕校は敎育空間の明倫堂を前の方に, 祭 空間の大成殿は後ろの方に置く前學後廟の配置であります. 現在も明倫堂と大成殿は保存されていますが, 1880年に書かれた重修記では「もはや古の聖賢の敎えは何一つ守らず, 學校は依然として殘りにし. その建物が朽ちるとて毫も惜しむことなかれ」と書き, 鄕校に賴った敎育が近代敎育に替わりつつあった時代狀況を物語ってあります.
正祖, 首露王陵の祭 を命ずる.
正祖16年(1792), 駕洛國の始祖王陵に對し春, 秋, 二回祭祀を行なうようにという國王の命令が下りました. この時から祭祀の祝文は國王の名前で作成され, 王陵の祭祀は國家的 祭典として確立されました. このような 統は現在まで續けられ, 陰曆 3月 15日と 9月 15日に行なわれる春, 秋の大祭祀では慶尙南道の道知事が始めての杯を差し上げる初獻官の役割を果たす習わしは, 朝鮮時代の國家祭 の 統を見せてくれるのであります.
朝鮮時代の金海地
金海地域の由來と 化は, 昔の地 を見ると一目瞭然に分かります. は金海を描いた一番古い地 で, 肅宗36年(1710) 頃の金海府であります. 省火也烽燧 盆山城烽燧 子巖山烽燧に繫がる烽燧 系, 倉庫と交通路の驛院 系, 邑の面の行政區域, 龜旨峰·首露王陵·許氏陵等の古蹟が表示されてあり, 招仙台は招仙島という島でありました.は大東輿地 であります. 今は金海平野の一部になった德島と竹島が島で描かれてあり, 竹島から內陸の方に望山島の表示が目を移らせます.は高宗3年(1866) 頃の金海府であります. 完全なる金海邑城と4大門, 邑城のすぐ下の(南浦, 城の外の西側にある首露王陵, 東の方の盆山城, 邑內の方に城壁などが鮮やかに見られます. はおよそ200年前のものと推定され, 性理學者の奇正鎭(1789∼1876)の遺品の中から發見されたもので, 1992年7月伽倻文化硏究會が奇氏宗親會長から購入したものです. 橫 70Cm, 縱 140Cmで, 邑城と官衙の配置が詳細に描かれてあり, 西の方の首露王陵, 北側の許王后陵もはっきりと見られます. この地 は首露王陵の遺物展示室入口で見られます.は1910年日韓合倂 時の金海邑であります.邑城と盆山城の城壁が明らかにみられます.は光復の後の1948年の金海邑です. 龜山洞の許王后陵と龜旨峰の間,進永へ行く國道が日帝時代に新しく作られたのが分かりますし, 鄕校方面にすこし跡がある邑城の城壁も表示されてあり,虎溪川はまだ覆蓋されていない狀態であります.
東學革命と農民蜂起
高宗31年(1894), 東學革命が起きると金海でも同年3月に府使の趙駿九の 貪虐に抗拒して農民達が蜂起しました. 官廳を破り, 府使の官印を奪い,, 府使を金海府境界の外に追放しました. 翌年, 1895年の乙未改革の時, 金海府は金海郡に改 され, 晋州觀察府に 屬されるようになり, 鎭營と堡が廢止され, 邑城·倉庫·軍器·水陣·烽燧·關 等すべてがなくなりました.
興宣大院君と万丈台
韓末, 金海出身で興宣大院君の厚い信賴を得た人 がいました. 金鍾大(1873∼1949)は, 光武7年(1903)に上京し科擧に 試しましたが失敗し, 大院君のところにいって, 彼の孫にあたる玟鎔と共に勉强をし, 親しくなります. 光武8年に法部主事になりましたが, 10年に斷髮を拒否し, 故鄕に下り, 本と伽倻琴を樂しみながら余生を送りました. 鳴旨の 民金万壽は(1841∼?), 碁が 上手で, 14歲の時, 最年少國手になり, 18歲に上京して大院君の寵愛を得, 鴨綠江の以南では第一という意味の「綠一」という までもらいました. 中國の袁世介とも對局したといわれ, 30歲の時には王樣の前で對局をし, 義興縣監を除授しました. 占いと術數に通達した李裕寅(1843∼1907)は眞靈君の助けもあって, 高宗22年(1885)武科に及第し, 楊州牧使になり, 明成皇后と高宗の厚い信賴を得, 漢城判尹(現在のソウル市長)と警務使(現在の警察總長)を て, 光武2年(1898)には法部大臣にまで昇進します. このような金海の人と大院君の信賴關係が作用されたかも知らないが, 金海の中心にある盆山の頂上には大院君が下賜した「万丈台」という揮毫が刻まれた石があります. 烽燧台の後ろにある石に大院君の揮毫と印鑑が刻まれており,盆山城內には興宣大院君のご恩を万歲まで絶對忘れないという意味の興宣大院君万世不忘碑が立てられています. 大院君が万丈台といったのは, 倭軍の侵入を防止する前進基地としての盆山城が万丈の高さの威力を持っているという意味を含めてそう命名したといわれています.
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