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壬辰倭亂の勃發と被害
宣祖25年(1592) 4月, 日本を統一した豊臣秀吉は, 朝鮮侵略軍を編成し, 釜山を急襲して東來と陽山を陷落させました. 18日には, 第3陣, 黑田長政 5千, 大友義統 6千, 森吉成 2千等全部で13,000人の倭軍が釜山から多大浦を て, 金海の竹島に進駐しました. 19日には 岩倉まで進出し, 金海城を包 します. 倭兵は鳥銃でもって集中攻擊をし, 19日の夜には城內での內紛も重なって, 20日の倭兵の總攻擊で金海城は陷落されてしまいます. この時から宣祖31年(1598) 11月 倭兵の撤收までおおよそ6年と7ケ月の間, 金海は倭軍の支配を被ります. 馬沙(現在の生林)·新沓(現在の酒村)·竹島·安骨浦·熊川の城はこの時倭軍の勞動力搾取によって作られたもので, 金海の人 が受けた被害は莫大なものでありました. 忠武公が 母山の頂上で, 竹島· 岩倉·德津橋(現在の 酒村面)まで倭兵がぎっしり陣を張っていましたし, また數百 の倭船が碇泊している模樣を偵察したといったのは, 他ならぬこの狀況を語ったのでありましょう. 金海城を陷落した倭兵は首露王陵を盜掘しようとしました.神兵が現れ, 倭兵全部を殺したという話, また直長であった許景胤が村人を牽いて封墳を積んで盜掘を防いだという話しなどが民間では膾炙していますが,『芝峰類說』で, 倭寇の盜掘の際, 墓の中にガッチリした骨格の主人公と2名の20歲ぐらいの女性の殉葬者があったと語っていますから, 壬辰倭亂の時, 首露王陵も大きな被害を被ったのは否めない事實であると思われます.
金海城戰鬪と四忠臣
592年 4月 18日, 多大浦を渡って倭兵が竹島に進出すると金海府使の徐 元は, 哨戒郡守であった李惟儉の支援を得, 敏捷な兵士を哨船に載せ偵察させたが, 敵軍に逮捕され失敗に終わります. 4月 19日の夜明け, 金海城が包 されると, 敵軍の烈火のような鳥銃攻擊にも構わず, 決死的に抗戰を續けました. 人望と才德を兼備した宋賓(1542∼1592, 進永)が李大亨(1543∼1592, 活川)と若者百余名を牽いて入城し, 武科及第者であった金得器(1549∼1592, 外洞)は東門を守り, 水使柳墉の孫,柳湜(1552∼1592, 大東面 安里)が家の者數十名を牽いて入城すると士氣も上がりました. 金海城は城壁が高く, 塹壕が深かったので倭軍が城に接近しにくかったし, 東門を守っていた士官白 良は城の松ノ木に登り, 矢を打ち敵の部將を射殺しました. ところが, 慶尙右兵士の曺大坤は昌原兵營に大勢の軍隊があったにもがかわらず, 援兵を送らず, 19日の夜, 倭軍が倭兵のカカシを城內に投げ むと, 城內は大混亂の狀態になりました. しかも草溪郡守 李惟儉は逃げてしまい, また金海府使の徐 元まで船に乘って, 晋州に逃げてしまうと, ますます困窮に落ちます. それにもめげず, 宋賓·李大亨·金得器·柳湜の四人は20日, 城が陷落されるまで戰い續け, 壯烈に殉死します. 壬辰倭亂歷史上, 最初の義兵であったのであります.
四忠壇の祭祀
金海府の人 は, 四忠臣の功績を えようと, 肅宗34年(1708) 進 に松潭寺と松潭書院を建て, 四人の位牌を奉りました. 純祖33年(1833), 松潭書院は表忠祠の名前を賜りました. 高宗8年(1871)には王樣から四忠壇と碑石も賜りました. 四忠壇と碑石は1977年, 現在の東上洞の松潭書院に置き換えて保存しています. 碑閣の屋根のところに如意珠を銜えて, 四方を守っている四匹の龍は四忠臣を象徵するもので, 彼らが殉死した陰曆 4月 20日を忌日にし, 每年追慕の祭祀を奉っています. 金海市內, 西上洞の支石には宋賓の殉節を える記念碑が立てられており, 支石の側面には宋公殉節岩という字が刻まれています. 宋公がこの石の上で, 王樣がおられる北の方面に向き, を擧げ殉死したといわれています.
宣祖大王の敎旨と御書閣
金海城の陷落した後, 善山から金海に來た權卓は崩れた城を修築して守りました. そのうち, 宣祖大王の國文敎書を奉り, 敵陣に潛り, 敵の守備兵を殺し, 日本に拉致されるところの民を百余名を救出しました. ところが, 權卓はその時の怪我で死んでしまいました. 後, 景宗はその功績を え, 掌 院判決事の職を追敍しました. 高宗7年(1870)には, 金海府使許 が權卓の功績を える文章を書く傍ら, 顯忠祠と御書閣を建て, 國文敎書-御書を奉安しました. 御書閣の規模が小さくまた古びていたので, 1990年に林虎山の南側の麓に擴張, 移轉しました. 國文敎書は 1988年に 物951 に指定され, 御書閣は道文化財資料 39 に指定されました. 金海市の唯一の 物である國文敎書は, 宣祖26年(1593) 9月作成され, 橫75cm, 縱48.8cmの大きさで「万曆二十一年九月 日」の日付けと,「諭書之 」の玉璽が現在も鮮やかに見られます.
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