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朝鮮時代は壬辰倭亂(文祿·慶長の役)を境に, 前期と後期に分けるのが一般的であります. 朝鮮前期, 壬辰倭亂, 朝鮮後期に分け, 朝鮮時代の金海の歷史を探ってみようと思います.

行政區域の 遷

朝鮮を開國された太祖は, 二年(1393)に全國各道の首官を定め, 慶尙道では桂林, 安東, 尙州, 晋州, 慶山と共に, 金海を首官に定めました. 太宗13年(1413)には各道の官名が改 される際, 金海都護府になり, 世祖5年(1459)には金海鎭管が設置され, 熊川(現在の熊東)·莞浦(現在の鎭海)の2縣は行政面で,昌原·漆原·咸安·固城·巨濟·鎭海·熊川は軍事面で, 金海の統制下に置かれるようになりました. 金海府の行政は正3品の府使, 司法は從5品の判官, 敎育は從6品の敎授が  し, 府使は六房を設置し地元の金海出身の鄕吏に實務を  させました.

地方自治の元祖

金海府の下位行政區域は, 面と里で編成されており, 面では面任·執綱·風憲 等で呼ばれる面長が, 里には洞首·洞長·尊位等で呼ばれる里長が府の鄕吏達と協議しながら, ほぼ自治に近い行政を  しました. また太宗の時から組織され始めた留鄕所は兩班で構成された地方首領の諮問機構として, 成宗20年(1489)に再び整備され, 縣令とか縣監, または進士などを歷任した有力で,德望のある五人の鄕正が構成されました. この留鄕所は地方首領に對する影響力があまりにも大きかったので, 太宗は一時的にはあれ, 留鄕所を廢止されるほど地方自治的な性格が强かったもので, 嶺南地域でもっとも活潑に運用され, 儒敎の敎養と人格を基本にする德治主義的な地方自治が金海で展開されたといっても過言ではありません. 地域で‘親方’という人物の役割は, 朝鮮時代の統治 制の 統から わってきた賜り物であります.

對日交涉の據点

世宗3年(1421), 慶尙左道の水軍都安撫處置使は, 對馬島遠征の時, 戰利品として獲得した, 倭船 34 が黃山江(現在の勿禁)に放置されたままだったので, それを新しく建造する目的で作られた官廳であります. その所以で, それ以後この地域に常住されております. ここでいう對馬島遠征とは世宗1年(1419), 李從茂等によって敢行された對馬島征伐を意味します. 對馬島征伐の戰利品が大東の前の洛東江にあったという事實は, 對馬島征伐の際, 金海地域が重要な役割を果たしたことを示唆しています. 1407年(太宗7)の三浦開港以前, 仇郞村の水站(現在の菉山, 美音洞)に倭館があったという事實は, 高麗時代にも金海に倭館が存在したことを 明し, 朝鮮時代になっても相 わらず對日外交の重要な地域であります. また海岸防御の要衝地でもありました. 成宗16年(1485)には菉山の金丹串に石で小さい堡を築き, 軍馬と牛を飼う牧場を作りました. 高麗の末から朝鮮の初に倭寇侵略の防禦策として整備され始めた烽燧は南海岸一帶から漢陽に送られた信  制で, 金海では, 省火也烽燧(菉山) 盆山城烽燧(金海市內) 子岩山烽燧(進永)という進路で送りました

三浦倭亂と金海の石合戰遊び

中宗5年(1510) 4月, 乃而浦(現在の鎭海市熊川洞)·釜山浦(現在の釜山東來)· 浦(現在の蔚山)の三浦の日本居留民達が對馬島島主と密通して亂を起こします. 薺浦を陷落した倭人が, 熊川城(現在の鎭海市熊洞))を取り んでしまうと, 金海府使成秀才はノドリ峠を越え, 縣監の韓倫と協力し, 敵を退けます. この時, 先鋒に立って倭賊に甚大な打擊を えた部隊が, 石投げを得意とする石合戰軍でありました. 『新增東國輿地勝覽』では, 金海の氣風は强さと簡潔さを重視するといい, その後石合戰の風俗を紹介しています. 每年 4月 8日, 子供達が邑城の南側に集まって,石合戰を練習し, 端午の日には靑壯年達が左右に分け, 旗を擧げ, また太鼓を打ち, 雨が降るように石を投げ合い, 勝負を決めたそうです. しかし, 死傷者が出ても一切責任を問わなかったし, 首領もこの石合戰だけは禁ずることができなかったといわれます. 現在の馬山に石戰橋という橋があって, その名殘を物語っていますが, 石合戰は元 金海の人の勇ましい 統遊びであったわけであります.

南冥先生の講學と山海亭

退溪 李滉先生と共に朝鮮性理學の 璧をなした南冥 曺植先生は, おおよそ18年の間, 金海で後學を敎え, また性理學を硏究されました. 燕山君7年(1501) 陜川の三嘉で出生され, 20歲の時, 生員と進士の初試に1等と2等の成績で及第しましたが, 管理職には進まず, 30歲の時妻の實家がある金海に移住し, 山海亭を建て, 18年 間の歲月を硏究と敎育に專念します. 金海での18年間は, 士林の氣風を進爵するのに大きな力になり, また大勢の優れた後學も輩出しました. その所以で, 朝鮮の巨儒として奉られ, 朝廷も幾度先生を登用させようとしましたが, 先生は固辭し一回も官職には就きませんでした. 山海亭は高い山に登り海を見下ろすという意味でありますが, 學問に精進して, ある境地に至ると,  綸と度量が大海のように廣まるという深い意味も內在されています. 宣祖21年(1588), 書院として着工し倭亂のため中止されましたが, 光海君元年(1609)に完成され, 新山書院とも呼ばれました. ところが, 興宣大院君による書院撤廢令で撤去され, 光復の後再建され現在に至っています. 祠堂の領域がなく, 學問の空間だけで作られた書院の形式をとっています. 建物は前の部分が5間, 橫2間の規模で, 屋根は橫から見ると八の字模樣であるので八作屋根といいます. 南冥先生が始めて性理學を硏究されたところであるし, 己卯·乙巳士禍で追い出された學者達の士氣を進爵させたところでもある山海亭は, 歷史的·敎育的に大切な意義をもっています.