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駕洛國の衰退
駕洛國は漆浦國(漆原)·古史浦國(固城)·史勿國(泗川)等の浦上八國の挑戰をうけ, 衰えていきます. 以前から駕洛國が握っていた海上交易權も, 挑戰する浦上八國の侵入を獨自的に退けられなくなります. 新羅に王子を行かせ助けを求めたり, 6千余名の駕洛國の民が捕虜になったりします. この戰爭をきっかけに以前の海上交易權はますます弱まってしまいます. また, 313年から314年にかけて高句麗が樂浪·帶方軍を追い出してからは, 駕洛國の先進文物の供給源は遮斷されてしまいます. 樂浪·帶方軍と日本列島の間の中 貿易を通じての富を得られる望みはもはや絶望的になってしまいます. 以後, 加耶史の中心が北部へ移動するようになったのも, これと關係あるように思われます. 『三國遺事』の駕洛國記の表現どおり, 加耶時代の金海は葉っぱのように狹くて, 農業で富を成す環境ではなかったのであります. まして, この時期になると新羅は蔚州の達川 山を開發するようになり, 駕洛國の鐵の生産を越えるようになります. 駕洛國はもう鐵の王國ではなくなります. 今までは, 駕洛國が衰退した原因をただ一度の廣開土王の南征から求めるのが一般的であったが, より根本的な原因は先進文物の供給の遮斷と, 鐵生産能力の逆轉のような 化から求めるべきであるとおもいます.「中原高句麗碑」(448年)の土內幢主と『日本書紀』雄略8年(464)の典馬の記述のように, 廣開土王の南征以後高句麗は新羅領土內に軍隊を駐屯させましたが, 高句麗を背景に, 新羅は蔚山を て獐山國(獐山一帶)·居漆山國(荒嶺山西北∼東來)のような加耶系小國を倂合して東來方面へ進出します. 5世紀前半から半ば頃になると, 東來の福泉洞古墳から出土される遺跡は新羅の色が濃くなるように, 洛東江の東の地域はすでに新羅の影響力の下に入ってしまうのであります. 駕洛國は洛東江を境に高句麗と一味になった新羅と對峙するようになってから搖れ始め,もう加耶史の中心の座を讓ってしまいます. 高靈·陜川·咸安·昌寧地域等と違って, 金海地域にマウンドが高い墳 高 が存在しなかったことはこのような事實を 明しています. 4世紀末から作られた高塚は金海地域では發見されません.それはすでに駕洛國の王權が高塚古墳の築造能力を持ってなかったことを意味します.
駕洛國の滅亡
5世紀半ば頃まで東來と陽山の加耶小國を倂合した新羅は, 洛東江を渡って本格的に進出し始め, 475年に熊津(公州)へ南下した百濟も, 『日本書紀』玄宗3年(487)の記錄から見られるように, 蟾津江の流れに沿って東進または南進しながら, 西部の加耶を壓迫し始めます. 百濟は6世紀の初の頃に南原等の加耶小國を統合し, 529年には河東まで南下し, 蟾津江を渡って安羅國(咸安)を脅かし始めます. 新羅と百濟の侵入に直面した加耶帝國は獨立の維持のため連帶をしたり, 百濟と新羅の間の外交にも全力を盡します. しかし, このような動きの中に駕洛國だけは特別な動きを見せません. 6世紀になると駕洛國はすでに新羅の影響の下に入ってしまったと思われます. 529年に安羅國では新羅·百濟·加耶·倭の使たちが集まって, 任那復興會議を開催します. ここで任那というのは南加羅, すなわち駕洛國のことであります.『三國史記』では駕洛國の滅亡を532年と記錄しています. それはまだ滅亡もしていない國を復興させるという矛盾的な記述であると思うかも知れません. しかし, 3年後, 駕洛國の仇衡王(仇亥王)が新羅に投降したのは最終の滅亡型式を整えたことにすぎなかったのです. 駕洛國は大加耶や安羅國とは違って, 自ずから投降しました. 新羅は武力と回遊の手段を 行し, 加耶帝國を統合して行きます. 駕洛國の王族に眞骨の身分を えて優待したのも, 回遊策の典型的な でありましょう. 新羅は駕洛國の仇衡王に金海地域を食邑として えたのは, まだ統合できていない加耶帝國に自進投降を勸める見本として活用しようとしたのであります. これは仇衡王の曾孫である金庾信が服屬國の後孫であるにもかかわらず, 新羅朝廷で最高の位置まで上がれた背景にもなるのであります.
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