トップ > 金海の歷史 > 高麗時代
南海岸の關門

高麗時代, 金海が大事にされたのは, 南海岸で一番重要な港の一つであった立地的條件を えていたからであります. 海運から得られる 濟的利益, 日本との外交を  した窓口, 倭寇の侵入を防ぎ, 蒙古の日本遠征を手 う國防の要衝地等は, 高麗王朝が金海を大事にしなければならない要素でありました. 鐵の海という意味の金海や, 海に面しているという意味の臨海という名もそうでありますし, 排岸使や防禦使のような官職が授けられたのは海岸を守る前進基地として國防的役割がそれほど重んじられたからであります. このような狀況は朝鮮時代の末まで續けられ, 南海岸の 濟と國防の中心として金海地域が認識される場合が多かったのであります.

對日外交の窓口

高麗時代の南海の關門であった金海は, 日本との外交交涉の窓口の役割をしました. 『高麗史』文宗3年(1049)に, 對馬島官廳は高官である明任等に, 漂流して行った高麗人の金孝等20名を連れて金州に訪れましたし, 文宗10年(1056)10月には, 日本國使の正上位權隷である藤原朝臣賴忠等30名が金州に來て, 館に泊っていたのを えています. 高宗30年(1243)9月の金州の防御官の報告によりますと, 日本が土産物を捧げながら漂流人である高麗人を歸したといいます. また, 元宗12年(1271)9月には蒙古から派遣する日本國信使の趙良弼が金海から日本に渡りました. このように金海は高麗と日本の使いの直接的往來が頻繁な地域で, 日本の使いが滯在できる倭館もありました. 『新增東國 地勝覽』は明月山の麓の仇郞村に水站を置き, 倭の使いを接待したといいますが, 水站は現在の釜山の江西區,美音洞の水亭マウル(村)と思われます. 1920年代まで水亭マウルから智士川に上る中間地点に, その痕が殘っていますし, 日本村という地名が1930年代まで殘されていたといいます.

倭寇の侵略

金海を通じた日本との平和的外交關係は, 高麗後期になると軍事的緊張關係に急 するようになります. 高麗後期になると, 海岸地域はどこでも倭寇が侵入してきて, 高麗王朝の大きな心配の種でありました. 民衆にも數多い被害を えた倭寇の侵入は, 高宗10年(1223)以後から急激に增えるようになります. 『高麗史』では, 高宗10年(1223)から恭讓王3年(1391)まで, 168年の間の倭寇侵入を484回と記錄しています. このような倭寇の侵略は南海岸に集中され, 金海地域にも數えられないぐらい上陸しました. 1223年の5月に倭寇が金海(金州)を侵略し始め, 後期の金海の記錄の大部分は倭寇の侵略と被害に覆われてしまいます. 元宗4年(1263)の2月には, 金海(金州)官內の熊神縣(鎭海)の勿島に侵入し, たくさんの町から貢納物の輸送船を略奪していきました. 南海岸地域の中で金海地域に倭寇の侵略がきわめて多かったのは, 金海が南海海運の中心であったからであります. したがって金海人と産物はもちろん, 他の地域の樣 な貢納物を輸送する船 を奪っていたのでありました.

倭寇防御の據点

高麗後期から激しくなり始めた倭寇の侵入を防御した有名な據点の一つが金海でありました. 邑城と盆山城が築かれたのもこの時期であります. 定宗6年(1040)金海府に城を築き, 高宗38年(1251)には倭寇を防禦するため, 金州に城を築いたと えられています. 高麗末の倭寇の侵略を破り, それを事前に準備した人が金海府使朴 でありました.『高麗史』列 によると密陽出身の朴 は禑王の時に金海府使に赴任し, 洛東江と南浦(花木洞)等で, 倭寇を退け, 盆山城を築いたといいます. また, 慶尙道の都巡問使になり, 高靈等でも倭寇を擊破し, 遼東征伐の時は元首になって李成桂と共に, 威化島回軍をし, 戰艦100隻で對馬島を攻擊して倭船300隻と海岸の建物を全部燃やし, 高麗人男女100余名を連れて歸ったといいます. 最近, 彩色壁畵が描かれた彼の墓が密陽で發見されたりもしました. 盆山城は金海中心の盆山(330m)の頂上に帶を卷くように石を積み上げた山城であります. 『金海邑誌』では昔の山城を石で再び積み上げたのだと えていますが, 現在は朝鮮末(1871年)に金海府使である鄭顯奭が改築したのが, 約900mぐらい殘っています. 主に傾斜が緩やかな市內の方へ城壁が積まれ, 倭賊の侵略を邑城では耐えられなくなった時登って來て, 長期的に抵抗したりした籠城であります. 鄭夢周は「盆山城記」を書いて, 朴 の築城をたいへん譽めながら,「加耶の昔の地に築かれた新しい城で杯を上げ, お祝いをする」と語りました. 金州の軍士は慶尙道で三番目に多かったのです. 保勝が188名, 精勇が278名, 一品が431名等合わせて897名が駐屯した南海岸の倭寇防禦の重要な基地でありました.

日本遠征の前進基地

高麗と蒙古の日本遠征軍の出發港は馬山の合浦でありましたが, 出發前に駐屯しながら準備をした所が金海でありました. 元宗12年(1271)正月, 蒙古が日本國信使である趙良弼を始め, 忽林赤·王國昌·洪茶丘等40余名を送って來ました. 9月に趙良弼を使いにして金海から日本へ送り, 忽林赤·王國昌·洪茶丘等が導く將兵たちと船泊, 軍艦等は金海に待機させました. 忠烈王7年(1281)の10月には元の皇帝の命令で, 金海(金州)に鎭邊万戶府を置き, 印侯を 勇大將軍鎭邊万戶に任命し, 虎符と印章を授け, 張舜龍を先務將軍鎭邊管軍摠管に任命しました. 日本遠征のための麗蒙連合軍の據点が金州であったのであります.