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駕洛國史の編纂
高僧一然は『三國遺事』に「駕洛國記」を採錄し, ただ一人,駕洛國の歷史を えた人物であります. その編名を駕洛國記と言い, 高麗の文宗の時, 金官知州事(金海市長)であった文人が編纂したと冒頭に書いています. 文宗の時なら文宗30年(1076)が確でありますが, 著者である文人については確ではありませんが, 首露王陵にある崇善殿神道碑(1889年)には, 文宗が知金州事である金良鎰に命じて作らせたと えています. 1076年に金海で駕洛國の歷史として編纂された「駕洛國記」は, 一番古い『三國史記』(1145年)より70年も早く編纂されました. 駕洛國の建國から滅亡までの歷史を, 編年 で敍述した歷史書でありますが, 始祖首露王と王陵に對して壓倒的に多く, 首露王陵碑文と同じ性格の內容のものと推定されます. 第2代居登王から第10代仇衡王に對しては, 卽位年, 治世, 王妃, 王子に對する記錄だけが述べられています. 今のように, 金海の加耶史が復元できたのも, 高麗時代に「駕洛國記」が編纂されたからであります.
加耶 敎の 統
駕洛國の第8代の蛛知王(452年)から始まった加耶 敎の 統は, 新羅を て, 敎國家であった高麗になってその花を かせました. 金海地域で, 許王后と長游和尙に繫がりのない寺刹はほとんどありませんが,實際, 時代的に加耶時代まで遡る 敎遺物や遺跡はほとんどありません. しかし, 2002年の德山里の發掘調査から分かった新羅時代の寺址と, 高麗時代の石塔と磨崖 等から相 わらず加耶 敎が金海地域で 承されていたことが確認できます. 德山里の寺址からは金銅如來立像, 金銅如來板 , 金銅 牌, 塑造 像等が出土されましたが, 金銅 牌が完全な形で發見されたのは最初のことで, 高麗 敎美術史の重要な資料にもなっています. 安谷里三層石塔, 進永烽火山磨崖 , 招仙台磨崖石 , 龜山洞磨崖 等は金海の高麗 敎を示す大事な文化財であります.
首露王と許王后を慕う遊び
「駕洛國記」は首露王と許王后を慕う競舟(boat racing)が, 高麗時代の每年7月29日に行われたことを えています. 民, 官吏, 軍卒たちが集まって, 乘岾に帳幕を設置し, 酒と食べ物を樂しみながら, 丈夫な靑年たちが東西に分けられ, 望山島から陸地へ馬を早く走らせ, 船先は波に乘って北の古浦に向かって競走しながら走ります. それは加耶時代の留天干と神鬼干が許皇后が西南の方の海から來るのを見て, 首露王に慌てて申し上げたのを眞似した遊びであります. 香港で世界的な祝祭として每年開かれるドラゴンボ-トの場面を連想してもらえれば宜しいかと思います.
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