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金州の人物
金 は元宗11年(1270)に金州防禦使に赴任し, 1271年に三別抄の亂に呼 し起きた密州(密陽)の民亂を, 判官である嚴守安と協力して平靜し, その功が認められ1271年に金州は金寧都護府に昇格されました.
許有全は金海出身で, 元宗末年に文科に合格し, 忠烈王の時は監察侍史になりましたが, 計略に嵌められ投獄されましたが, 間もなく赦免されました. その後, 國學司芸, 銓曹侍郞, 都僉議參理知密直司事を務てから, 忠肅王の時には駕洛君に奉られ, 政丞にまで上がりました. 忠宣王が元から吐藩に流配され, 閔漬等と共に忠宣王の召還を求め, 81歲の高齡で夫人も鬪病中なのにもかかわらず半年も元にとどまって歸還運動をしました.
宋天逢は金海出身で, 文科に優秀な成績で合格し, 忠穆王の時は監察掌令になって不正な宰相を彈劾しましたが,そのため,かえって流配されました. 恭愍王初の頃, 監察執義になってたくさんの人材を推薦し, 禑王の時には大司憲にまで上がりました. 監察と上訴で國を建て直そうと努力したのが認められ, 金海君に奉られるようになり, 81才の時にこの世を去りました.
金庾は金海出身で, 恭愍王の時に紅巾賊を平靜し, 開京を修復させました. また, 元が德興君を王に推戴するのに反對して德興君の亂を平靜したが, その功が認められ1等功臣にもなりました. 崔瑩が王に不敬な態度を示すのを見て彼を退けたりもし, 元に使いとして行った時, 禑王の出自を聞く皇帝に答えなかった罪で今の雲南省の大里まで流配されました. 元に諂う勢力家の李仁任とぶつかり合って, 禑王12年(1386)に投獄されましたが, 流配地の順天へ行く途中, この世を去ってしまいました
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