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高麗の地方制度
高麗時代における地方制度の一番大きな特徵は, 王權に對する寄 度によって行政區域を昇格, または降等させることでありました. 建國初期には後三國の統一戰爭過程で太祖王建を手 った地域なら昇格されましたし, 後百濟や泰封(後高句麗)の味方であった地域は降等されてしまいました. 後期になると, 倭寇の侵入を防ぐのに寄 したり, 民亂を起こした責任等を問い, 昇格または降等を繰り返しました. 金海も例外ではなかったのです. 936年に統一を成し遂げた太祖は, 940年に金海小京を金海府に降等させ, また臨海縣に降等させましたが, 最後には臨海郡に昇格させたのであります. 光宗22年(971)には金海府に昇格されましたが, 地方制度が整備される成宗14年(995)に, 10道を決める時, 嶺東道の安東都護府に大きく昇格されましたし, 穆宗3年(1000)に安東大都護府が置かれましたが, 顯宗3年(1012)に金州に直し, 防御使を置きました. 忠宣王1年(1309)には金州牧に昇格されましたが, 忠宣王3年(1311)に金海府にまた直されました..
金州の位相
高麗時代の金海の地域的位相は, 次のような資料から推定できます. 第一, 高麗全國を10道に分けたその中, 慶州と共に嶺東道の主管行政機關として安東大都護府が置かれました. 第二, 金州は金海地域以外の行政區域も治めていました. たとえば, 高麗時代の咸安·義安(昌原)の2郡, 合浦(馬山)·漆原·熊神(鎭海)の3縣がそれであります. 大 , 洛東江の以南から, 洛東江から邱馬高速道路に至る馬山·昌原·鎭海の地域が金海に屬されていました. 第三, 文宗の時決められた地方官の食祿によると, 金州の防御使は蔚山·醴泉·陽山·安東と共に100俵貰っていましたが, 同じ時期の知西京留守事(平壤)が270俵, 南京留守(ソウル)が200俵であり, 現在のソウル市長に たる開城府使が86俵10斗であったのを見ると, 金州がどのぐらいの位相であっかを分かります.
金州の交通と産業
『高麗史』によると, 全國の交通網は22道, 525驛に分けられましたが, 金州道には31驛があり, 德山, 大東面, 省仍(進 面), 赤項(長有面官洞里), 金谷, 大驛(義昌郡大山面)等が記錄されています. 洛東江を渡って陽山に出る德山, 冷井I.Cの北の方から昌原へ行く省仍, 南の方の熊川·鎭海に出る赤項, 北の方の三浪津から洛東江を渡る金谷, 密陽と水山から洛東江を渡る代山等の, 金海から東西南北に通じる道の原形はすでに高麗時代に作られました. 高麗時代には手工業者たちを賤民として差別扱いして, その人たちの町を鄕·所·部曲に分けました. 金海には水多部曲(大東水安里), 齊乙 鄕(長有三文里), 省火 鄕(菉山山陽里), 達音浦鄕(大東月村里), 甘勿也鄕(大東大甘里)等がありまして, 大東と生林のように鐵生産の産業を させました. 甘勿也鄕の甘勿は燒きを入れることを, 也は冶鐵を意味するもので, 今の大東面の大甘や甘內のように地名として殘されています. 忠烈王2年10月に元國に栗を捧げるようになりましたが, 日本に使いとして行った趙良弼が貰ってきて,義安縣(進永)に植えて實が成ったのを送ったのであります. 定宗2年(947)12月に「金州官內の州縣等が洪水にあって防築が崩れ, 民家が破壞されたし, 農作物の被害を受けた」という官の報告があったのをみると, 水害も多かったことと推測されます.
金州の農民抗爭
高麗後期に權門勢族の搾取が激しくなるにつれ, 農地を離れ流浪する民が增えました. それで町と國を建て直すための民衆抗爭が激しく展開され, 慶尙道では密陽, 淸道, 慶州, 金海等で猛烈な農民抗爭が續けられました. 神宗3年(1200)8月には, 金州で雜族人たちが搾取を行っている豪族を殺そうと蜂起しました. 暴動軍は武器を持って官衙を み, 副使李迪儒が屋根から矢を引き, 主謀者を倒し, その群れを分散させました. 間もなく暴動軍が って,「我らは邪惡な貪官汚吏を除去し, 我が町をきれいにしようとするのになぜ矢を引くの」と叫んだのであります. 李迪儒が城の外にある豪族たちと挾攻し彼らを皆殺しにしました. 忠烈王19年(1293)正月には農民ではありませんが, 丁吏の林大と, 營吏の許頒と金彦が暴動を起こし, 慶尙道の按廉使である劉顥を殺しました. 林大は劉顥に白金2斤を奪われたのが恨みになって, 許頒と金彦は營庫の檢閱を避けようとして暴動を起こしたのでありました. この事件で金州は一時縣に降等されました.
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