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新羅社會の駕洛人
新羅に合倂されたあと, 駕洛國の領域と民の大部分は新羅の地方と人民に編制されましたが, 金庾信一族のように被征服民の子孫で, 征服國の新羅の最高權力まで昇った人たちもいました. 仇亥王は新羅に投降して駕洛國の王の座は失いましたが, 新羅から金官郡を食邑に授けられ, 濟的にはあまり りがなかったのです. このような待遇はその子孫たちが新羅の都で出世していく大きな基盤にもなりました. 仇亥王の子である武力, 孫である舒玄, 曾孫である金庾信は3代にわたって, 身分上昇の努力の結果, 新羅朝廷の最高位まで昇るようになりました.
金庾信の祖父と父
金武力は眞興王14年(553)7月, 漢江流域の新州軍主に任命され, その翌年554年には百濟と大加耶の連合軍を忠北沃川の管山城で全滅させ, 百濟の聖王を戰死させるのに決定的な業績を上げます. また, 昌寧の「眞興王巡狩碑」に見られるように, 561年には562年の大加耶の總攻略のための昌寧集會に漢江流域の總司令官である漢城軍主として參加しました. 金武力は戰場で築き上げた軍功を元に新羅の朝廷で出世していきました. 金舒玄は新羅の第3品の蘇判で, 大梁州都督(陜川)と万弩郡太守(鎭川)を務めたが, 葛文王の子である肅訖宗の娘の万明と親の許諾なしに結婚して, 金庾信を産み, 聖骨の女性との婚姻を通じて骨品制度の身分社會である新羅で身分上昇を計ったとみられます.
金庾信
金庾信は第29代武烈王と共に新羅の三國統一を成し遂げた柱でありました. 開皇15年(595), 鎭川で生まれ, 15才の時には花郞になり, 17才の時には一人で石窟に入り武芸を磨きます. また, 高句麗と百濟を相手に多くの戰爭で軍功を上げ, 642年に押梁州(梁山)軍主, 644年には蘇判(3品)を務め, 647年には金春秋と共に善德女王を助け, 女王の統治不可を主張する貴族の毗曇の亂を鎭壓して, 648年に伊粥(2品)にも上がり, 654年には眞德女王の後を いで金春秋が武烈王に卽位すると, 新羅の最高地位を固めるようになりました. 660年に百濟を滅亡させ, 668年に高句麗を統合して, 太大角干という最高位まで上がりましたが, 唐軍の追放と三國統一の完成が目の前にあった673年にこの世を去ってしまいます.
金庾信が新羅朝廷の最高位置まで上がれたのは統一戰爭で成した武功が第一の要因ではあるが, 妹である文姬(文明王后)を武烈王の嫁に嫁がせ, 新羅王室と婚姻關係を結んだのも重要な要因であります.しかも「金庾信碑」には「軒轅の子孫で, 少昊の後裔なので, 南加耶の始祖である首露は新羅と同じ姓になる」と書かれ, 新羅人が少昊金天氏の後裔なので, 姓を金にしたという說に迎合した出身 承をも作り出したりしました. 新羅と同じ出身であるのを主張することによって, 新金氏の金庾信一族は 金氏で代表される 統的骨品制度の壁を越えようとしたと思われます. 以後100余年以上, 金庾信の子孫たちは 統的慶州の貴族たちが妬むほどの榮華を營むようになったのもこのような努力の結果であります.
金庾信の子孫
金庾信の息子に, 三光とその弟の元述がいます. 元述は文武王12年(672)に唐との戰爭に負け, 王名と家訓を汚したといって親から勘 され, 太白山に隱遁します. 後に買肖城(楊州)で唐軍を大破するなど,多くの軍功で賞まで受けますが, 親に許してもらえないことを悲しんで, 官職にも就かず晋州に住みます. 今の晋州金氏がその子孫になります. 金庾信の孫の允中は聖德王24年(725)に大阿飡(5品)で中侍に任命されましたが, 733年に唐が新羅に渤海侵略を要求しながら, 彼を遠征軍指揮官に指目したので, 聖德王はその弟の允文と共に渤海の侵略を命令したが, 大雪で遠征は成し遂げられなかったのです.
金巖は金允中の庶孫で, 唐に宿衛として留學し, 陰陽學を學んで, 自ずから遁甲法まで創案したりしました. 歸國後は司天台博士になって, 天文と易數を受け持ちました. 良州·康州·漢州の太守にもなり, 執事侍郞と浿江鎭の頭を務めながら, 六鎭兵法を敎えたりもします. また, 術法にもすぐれ, イナゴが浿江鎭一帶を襲った時, 山の麓に登って香を焚き, 呪文を唱えながら天に向かって祈ったら, 急に嵐が吹き荒んで蝗 が全部死んだといいます. 惠恭王15年(779)には日本に使いとして派遣されましたが, 歸國の際には,光仁天皇が彼の道術がすぐれているのを知り, もっと日本に留まることを進めたと えられます. 金巖の兄弟である金長淸は執事部の最下位の執事郞に止まり, 金庾信の死後100年余りで家系がたいへん衰退したことを見せています. 金長淸は家系の回復のため金庾信の 記『行錄』10卷を書きましたが,『三國史記』の中の金庾信 記はこれを簡單に採錄したものであります.
眞鏡大師
駕洛國の後裔として新羅 敎の振興に大きく貢獻した人が眞鏡大師であります. 眞鏡大師は新羅末期の新しい 敎運動として行われた九山禪門の一つである昌原鳳林山門を創建した大僧侶であります. 1919年の3月に日本が昌原鳳林寺から景福宮に移轉した眞鏡大師碑にその詳しい內容が えられています. 眞鏡大師は新羅の文聖王17年(855)12月10日に生まれ, その名は審希, 俗世の姓は新金氏で, 任那王族の後裔であり, 興武大王の子孫として記錄されています. 新金氏というのは新羅が駕洛國を統一する際, 新しく編入された金海金氏と慶州金氏との區別のため使った名 であり, 任那王族の後裔とは駕洛國王族の後裔だという意味であり, 興武大王というのは金庾信の詩 であります. 眞鏡大師は9才の時に圓鑑大師から敎えを受け, 19才の時には具足戒を授けられ, 14年間名山を巡りながら修道し, 尊敬される高僧になりました.
888年に眞聖女王のお呼びがあったがそれを受けずに, 進 城諸軍事である金律熙の賴みを受け, 鳳林寺を建てました. 918年には景明王の賴みで王宮に入り, 法膺大師という を授けられました. 70才になる景明王7年(923)4月2日に鳳林寺で入寂しましたが, 景質禪師等の500人の弟子がいたと えられます. 同年舍利塔が, 翌年には碑が立てられ, 今はそれぞれ 物362 と363 に指定されています. 眞鏡大師は駕洛人の後裔として, 新羅 敎の振興のため重要な位置を占めた大僧侶だったのであります.
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