トップ > 金海の歷史 > 新羅時代
首露王陵の祭祀

661年に文武王が卽位し, 首露王陵の整備を命じ, 良質の土地30頃を王位田として使わせ, 代 に祭祀が絶えないようにしましたが, 新羅末になって祭祀が絶える危機を迎えました. 中央からの統制が弱くなったことを利用して,  干(3品)の忠至が金官高城を占め城主將軍になると, 彼に從う阿干(6品)の英規が忠至の勢力を借り, 首露王陵の祭祀を奪って勝手に振り回したが, 端午の日に祠堂の中房が倒れ壓死してしました. それで忠至は首露王の影幀を描いて晝となく夜となく祈ったが, 肖像畵の目から一斗余りの血の淚が注いだのを見て親孫である金圭林に祭祀を奉るようにしました. 金圭林は以後88才になるまで祭祀を奉り, 息子の間元に がせ, 現在まで 承されています.