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三世紀以前における加耶の海上交易は,主に日本の北九州との間に行われ,三世紀末以後になると日本の畿內を包む日本各地や中國の北方へ擴大され, 中國北方の文物はその地域住民の海上を通じた移住の産物である.

中國の史書『三國志』魏書東夷傳弁辰條のあの有名な記事, "國で鐵が生産され, 韓·濊·倭人らが買っていく. 市場の賣買には鐵が使われ,中國で錢が使われることと同じく,また二郡にも供給された",ということからも分かるように,古代の嶺南地域は早くから三韓時代より鐵を媒介とした樣 な地域との交易が行われていました.これらの交易相手の中で,濊や倭, そして樂浪と帶方の二郡との交易は,海路が利用されたのは確かあります.すなわち, 海上交易でした.

しかし,時期によっては交易の相手や性格は微妙に異なります.まず,日本列島との交易について考えてみます.

三韓時代における弁韓の對日本交涉の主な相手は北部九州に限られていました. これは金海良洞里遺蹟で北部九州特有の儀器である廣形銅矛や, 北部九州を中心に分布される倣製鏡などが發見されることから分かります.その反面,同時期の近畿中心の特徵的な儀器である銅鐸が,弁辰の地で出土された例はありません.この海上交易では,北部九州の倭人が弁韓の鐵を入手する對價で, それらの特産品, たとえば各種の海産物と米などの食品類や,廣形銅矛·倣製鏡 などのような北部九州の支配者が持っていた象徵的な物品を送りました.これらの交易はあくまでも經濟的な性格が濃いものでした.

しかし,三世紀末における金官加耶の成立後になると, 日本列島との交易は,その對象地が擴大されているだけでなく,その性格も變っていきます.旣往の北部九州の外に日本列島の廣域へ擴大されていきました. この時期における洛東江下流域 金官加耶 で發見されている土師器系の土器の中には,北部九州系のものだけでなく,東海(日本海)に面している山蔭系のものや,遠くは北陸系のものも含まれています.このように擴大された海上交易の對象地からは,鐵の對價で海産物や米のような特産物の外に, その地の勞動力も提供されたものと考えられます.

加耶で發見される日本系の土器で, 三世紀末∼四世紀初のものが日本製の土師器に比べ,四世紀前半になると日本製の土師器は殆んど確認されなく,その全てが加耶で製作された日本系土器, すなわち土師器系の土器だけが出土されるところに留念する必要があります.こういったことから, 加耶の鐵を得る對價で三世紀末∼四世紀初に勞動力として提供された倭人らが持ち まれた土器がこの時期の日本製土師器で, その後故鄕歸らなかった倭人一世代とその子孫が加耶で製作したのが,四世紀前半以後の土師器系土器と思われます.四世紀前半以後,加耶で以前として土師器系土器が造られているのは,勞動力として提供された倭人やその子孫が加耶社會に編入されたことを意味します.すなわち, 倭系加耶人である可能性が强いんです.これは土師器の影響が,この時期から小形の廣口壺や器臺なの加耶土器に强く反映されていることからも窺えられます.

一方, 加耶の地で日本製の土師器が加耶製の土師器-土師器系土器へ轉換していく時期に,日本列島の支配者の專有物も加耶で確認されます.金海大成洞 13號墳發見の巴形銅器や綠色凝灰巖製の石製品がそれでした.特に,巴形銅器が日本列島の中心部の畿內で發見されることから, 加耶の對日本交涉がここまで擴大していること,さらに交易に政治的色彩が加味していったことが分かります.これは單純な物資の交流だけでなく,日本列島から勞動力も提供されたことからも傍證されるところでありましょう.

三世紀末になり洛東江下流域に中國の北方文化が大擧流入されたことによって,金官加耶が成立したとする見解が考古學から强く提起されています.よって,この頃の交易の性格について注目する必要があります. この頃の北方文化を代表するもので,「物質文化」として最初に現れた陶質土器の兩耳附短頸壺と「精神文化」として現れる殉葬です.このような北方文化は高句麗などの韓半島北部や百濟の韓半島中部の地域を飛び越え, 韓半島最南端の洛東江下流域場するところを見ると,その文化の流入經路は陸路ではなく海路だったことは確かです.この海路はいろんな考古學的證據からみて東海岸を通った「ル-ト」でありました. しかも,韓半島の北部や中部を飛び越えていること, 北方の物質文化とともに殉葬で表された精神文化を同伴していることなどや,その他の明確な考古學的證據からみると,このような北方文化は單純な交易の産物ではなく,その文化を携えた特定の北方住民たちが,海上を通じて移住した結果によるものでした. これが他の海上交易と大きく異なるところでしょう.

<申敬澈>