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加耶小國の社會構造,祭政一致的な面貌とその限界性,貴金屬を選好する 貴族階級の存在與否

二 三世紀の弁韓,すなわち前期加耶の十二國は各 二千戶に人口一萬名ほどを支配する獨立勢力だったが,相對的に規模の差が存在する狀態でした.このような狀態は馬韓五十餘國や辰韓十二國の場合にも大 似てました.現在の慶尙南北道に四十一個の市 郡があることに比べ,當時には辰弁韓あわせて二十四個の小國があり,ひとつの小國が占める地域範圍は今の二個郡ほどの規模でした.

各 の小國は一個所の國邑と多數の邑落集團で構成されていました.しかし,小國內部の權力が國邑だけに集中されたわけではなく,多數の邑落に分散され,國邑の主帥が各邑落の渠帥を制御できたわけではありませんでした.

また國邑內には政治機能を擔當する主帥の外に,天神に對する祭祀を主管する天君がいました.そして小國の支配權力は初期王權の神權的,または祭政一致的な段階より發展したけれども,まず天君の宗敎的權威を超越し得なかった限界性を持っていました.

このようにみると,前期加耶の小國は內部構造上,まず權力者が出現し,政治的權威と宗敎的權威に分化されが,社會經濟的階級の分化,官僚制の制度化,中心勢力による權力獨占などの要素は具備し得なかったのでした.

後期加耶の各 の小國も國邑に繫がるいくつかの邑落で構成され,基本的な支配權力は旱岐に分散されていました.その反面,大加耶 安羅 多羅などの一部の小國は,その發達が微弱ながら官等體系を整えていました.後期加耶の各小國も,基本的には前期加耶と殆んど變わらない內部構造を整えていたけれども,盟主國やそれに次ぐ小國は,より發展した面貌が認められます.

また『三國志』の記錄によれば,三韓の人 は玉を財寶と思って身に裝ったが,金銀は珍しくなさそうでした.考古學的な遺物をみても,二 四世紀の金海の良洞里や大成洞古墳群等からは華麗な玉頸飾は多量出土されますが,金銀製品は現れませんでした.加耶地域で玉を多く利用して華麗な裝身具を所有する貴族階級は,遲くとも二世紀後半には生まれたと見ることができます.しかし,かれらの全てが奢侈品ではなく,玉だけを選好したということは,特別な呪術的な思考方式によるものと考えられ,貴族階層さえも社會經濟的に充分に成長しえなかったことがいえましょう.

そうするうちに,五世紀以後には加耶の多くの國で,冠 耳飾 頸飾 指環などの裝身具と大刀 馬具 冠なども,玉だけでなくて金 金銅 銀のような貴金屬で裝飾したことが確認されます.そして,五 六世紀の加耶社會には社會經濟的な富をもとに,貴金屬を選好する貴族階級がすでに存在していたことが充分に論じられます.

ただ,四世紀以後には加耶地域のおおくの古墳で身分の高い人の死後世界の付き添いとして,侍從らを殉葬させ,古墳群の中でもその規模や遺物の質などで優劣の差がはっきりと表れます.これで,加耶社會の構造は二世紀以後から六世紀まで漸進的に階層化されて行ったということが言えましょう.

<金泰植>