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金官國の首露王陵と王妃陵が設置されて保存されてきた經過

金官國は滅亡しましたが,首露王陵は今でも殘っています.首露王陵はどのように造られ,どのような歷史を經て,今に傳えてるのでしょうか.また,現在の王陵はほんとうに首露王の墓なのでしょうか.

『三國遺事』駕洛國記によれば,首露王陵は西紀199年に造成され,當時には首露王陵の隣に'便房'という小さい建物だけがあったと傳えます.しかしその時期の古墳の殆んどは土壙木槨墳で,低い封墳だけを持っているので,今のような高いマウンドはあり得ませんでした.

現在の位置に首露王陵が造營されたのは,新羅文武王の元年(661)のことだったと思われます.文武王は王位に就くまもなく,"首露王は我が母上の祖先で朕からは十五代の祖先に當る.よって首露王を宗廟に仕え奉りなさい"と詔しました.

しかし,その頃に宗廟はまだなく,精 墳墓のまえに祠堂が建てられるぐらいでした.この時,首露王陵の前には祠堂(廟)が新設され,封墳もおおきく盛土されたことと推定します.首露王陵の位置もこの際に移された可能性もあり,內部構造も當時における新羅王陵の橫穴式石室の樣式に造り直された可能性が高いです.

このように整備された首露王陵と祠堂は,新羅末~高麗初の時代に,新羅王權に對する新興地方豪族の挑戰や盜賊の襲擊,そして新しい高麗朝廷による壓迫などがあっても,その規模の大體は維持されました.これは金海地方の首露王の後裔たちが高麗時代までも,かなりの勢力を維持していたことによったものでした.12世紀中後頃の高麗文宗のときには,首露王陵と王妃陵を補修して,改めて碑文を立てるなど,大 的な補修が行われました.

しかし,高麗後期になり,首露王陵の周 は,蒙古や倭寇の侵略によって朝鮮初期まで,およそ數百年間に渡って荒廢されました.朝鮮王朝が開國し,第四代の世宗21年(1439)には,首露王陵が水田に浸って壞れ,王陵の墳丘上で牛馬を放し飼いする,という慶尙道觀察使の報告を受け,四方三十步の王陵域が定まりました.その後,15世紀末の成宗代には,在地出身の士林の主導で會老堂と齋室が建立されました.

『芝峰類說』の記錄によれば,首露王陵は壬辰倭亂のとき倭寇によって盜掘されたが,くぼみのうちは大 廣くて,頭蓋骨はたらいのほどに大きくて,棺 外に殉葬されたとみられる二人の美女がいたといいます.そして,その復舊過程として,仁祖24年(1646)にはじめて,首露王陵と許王后陵の陵碑や牲石などの石物も立てられました.

その後,代 に首露王陵に屬する建物もがすこしずつ增え,正祖17年(1793)には,在地の人 たちの願を受け入れ,すべての建物があたらしく建築されました.納陵正門 駕洛樓などののような殿閣が うようになりました.なお,高宗15年(1878)に祠堂の崇善殿が王朝の賜額を受け,駕洛國の王陵と宗廟が完全に整えられるようになりました.

The royal tombs of Silla, Goryeo, and Joseon are the most well-known tombs, and given the power that the three ある時代に韓半島の全域を支配していた,新羅や高麗そして朝鮮の王陵が現在まで えてくるのは,むしろ當然でありましょう.しかし,前期加耶連盟の盟主國の始祖の首露王とその王妃の許王后の陵が,今日まで祭祀をうけながら えられているのは,いささか不思議とも考えられます.それは王と妃の陵への祭祀を執り行う集團,すなわち駕洛國の王族は國が滅んだ後も,新羅·高麗·朝鮮時代の1,500年の間に在地の覇權を長く維持したこと,そしてそれを中央政權から認めてもらったことを意味するものでした.

<金泰植>