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現在の位置に首露王陵が造營されたのは,新羅文武王の元年(661)のことだったと思われます.文武王は王位に就くまもなく,"首露王は我が母上の祖先で朕からは十五代の祖先に當る.よって首露王を宗廟に仕え奉りなさい"と詔しました.
しかし,その頃に宗廟はまだなく,精 墳墓のまえに祠堂が建てられるぐらいでした.この時,首露王陵の前には祠堂(廟)が新設され,封墳もおおきく盛土されたことと推定します.首露王陵の位置もこの際に移された可能性もあり,內部構造も當時における新羅王陵の橫穴式石室の樣式に造り直された可能性が高いです.
このように整備された首露王陵と祠堂は,新羅末~高麗初の時代に,新羅王權に對する新興地方豪族の挑戰や盜賊の襲擊,そして新しい高麗朝廷による壓迫などがあっても,その規模の大體は維持されました.これは金海地方の首露王の後裔たちが高麗時代までも,かなりの勢力を維持していたことによったものでした.12世紀中後頃の高麗文宗のときには,首露王陵と王妃陵を補修して,改めて碑文を立てるなど,大 的な補修が行われました.
しかし,高麗後期になり,首露王陵の周 は,蒙古や倭寇の侵略によって朝鮮初期まで,およそ數百年間に渡って荒廢されました.朝鮮王朝が開國し,第四代の世宗21年(1439)には,首露王陵が水田に浸って壞れ,王陵の墳丘上で牛馬を放し飼いする,という慶尙道觀察使の報告を受け,四方三十步の王陵域が定まりました.その後,15世紀末の成宗代には,在地出身の士林の主導で會老堂と齋室が建立されました.
『芝峰類說』の記錄によれば,首露王陵は壬辰倭亂のとき倭寇によって盜掘されたが,くぼみのうちは大 廣くて,頭蓋骨はたらいのほどに大きくて,棺 外に殉葬されたとみられる二人の美女がいたといいます.そして,その復舊過程として,仁祖24年(1646)にはじめて,首露王陵と許王后陵の陵碑や牲石などの石物も立てられました.
その後,代 に首露王陵に屬する建物もがすこしずつ增え,正祖17年(1793)には,在地の人 たちの願を受け入れ,すべての建物があたらしく建築されました.納陵正門 駕洛樓などののような殿閣が うようになりました.なお,高宗15年(1878)に祠堂の崇善殿が王朝の賜額を受け,駕洛國の王陵と宗廟が完全に整えられるようになりました.
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